綴る

日々のあれこれ、これまでと、これからと

卵巣がんになったときの話⑥

大学進学とともに私は地元を離れた。初めての土地で一人で暮らすことは、最初はとても心細かったけれども、それも次第に慣れていった。その頃にはもう、採血・CTと診察は半年に1回でよくなっていたので、大学の夏休みと冬休みで帰省したタイミングに合わせて、通院していた。

抗がん剤治療が終わってからもう何年もたっているのに、私には生理が来なかった。私の病名は卵巣嚢腫だと聞かされていたので、いつかは来ると思っていた。一度、母に「私将来子ども産めるかなー?」と聞いたことがある。母は「あなたは普通の女の子だから。普通の女の子と何も変わらないからね!」としか言わなかった。

このことは、私の中でなぜかずっとひっかかっていた。一人暮らしで初めて自分用のパソコンを持つようになった私は、ある日ふと思い立って、卵巣嚢腫について書かれたサイトを見ていた。通常ならば手術後しばらくして生理が来ると、どのサイトにも書かれていた。卵巣嚢腫になったという方が書かれているブログをたまたま見つけ、私は思い切ってメールをしてみた。その方は自分の場合はどうだったか、不安なことがあるのなら、医師にちゃんと伝えてみるといいよ、と丁寧な返事をくれた。

20歳になったとき、私は母といつものように地元の病院へ行った。病院の駐車場には、仕事場から直行した父がいた。両親揃って診察に行ったことはなかったので、何かあるのだろうと思った。

その日の診察で、私はすべてを知らされた。私の病気は卵巣嚢腫ではなく卵巣がんであったこと、それもステージはIIc期であったこと。発見が遅かったため、5年生存率も低く、そのことを私が知ったらショックを受けるだろうと考えた両親が、事実を伝えないよう、医師に交渉していたこと。そして、私の体にはもう卵巣も子宮もないということ。

あぁやっぱり、としか思わなかった。ふりかえってみれば、思いあたる節なんてたくさんあった。抗がん剤治療もしていたし、生理もこない。そしてあの母の大げさな対応。私はどこかで心に予防線を張っていた。もし卵巣がんだった時、ショックを受けないように、落ち込みすぎないように。

一人暮らしのアパートに帰って、少し泣いて、また病気のことについて考えはじめた。卵巣がんステージが進行していたことは正直驚いたが、それ以上に生き延びられたことの重みを感じた。私は生き残れたのだと思った。

両親が私に事実を伝えなかったことについては、なんとも思っていない。むしろ、私に対して嘘をついていたことは、心苦しかっただろうなと思っている。それに私はあの当時未成年だったから、私に決定権なんかなかったのだ。

でも最近、もしあの時事実を伝えられていたら、どうだっただろうかと思うこともある。小心者の私はパニックになったかもしれない。その意味では、「嘘」をつかれてひたすら勉強に専念していたのは、かえって良かったのかもしれない。一日でも早く学校に戻ること、授業に遅れないようにすることは、私にとって闘病生活を生き抜くための唯一の原動力だったのだから。

他方で、最初から病名を伝えられ、治療の選択肢を自分で選んでいたら、私はもっと自分の体に対して主体的になれたのではないかとも思う。私はどこかで、自分の体を自分の体として考えられていない。かつて卵巣や子宮があった場所は今どうなっているのか。空洞になっているのか、それとも肉で埋もれているのか、膣の奥はどうなっているのか、そういったことを気にかけることすらなかった。今もそのことを知りたいとは思えない。私は私の身体にとっての他者であり、傍観者のような気持ちでい続けている。

私は幸いなことに、術後5年をとうに過ぎた今でも元気に生きている。この卵巣がんはその後再発するのだが、その時の話はまた改めて綴っていきたい。