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綴る

日々のあれこれ、これまでと、これからと

読み終わってからが本番:皆川博子『死の泉』

ずっと読みたいと思っていたけれどなかなか機会がなかった皆川博子さんの本を、ついに読むことができた。『死の泉』。

舞台は第二次世界大戦から戦後までのドイツ。ナチスの産院(レーベンスボルン)で私生児を出産したマルガレーテは、産院の医師クラウスから求婚される。クラウスはレーベンスボルンにいる少年エーリヒの歌声に魅せられ、彼を去勢歌手(カストラート)にするためにエーリヒと、彼が懐いているフランツを養子として引き取る。

レーベンスボルンの隣に建てられた家の中で一日を過ごすマルガレーテとその子どもたちは、外の世界から完全に孤立している。芸術品に囲まれ、使用人のいる生活。クラウスは毎日ピアノを弾いて、エーリヒに声楽のレッスンをする。第一部では、戦争中とは思えないような、優美で、でもどこか不気味な描写が続く。第二部では打って変わって、戦後ドイツの様子が埃っぽく描かれている。増え続ける移民、ナチスを密かに信奉しつづける極右グループなど。

本書が独特なのはその構成だ。本書は、ギュンター・フォン・フュルステンベルクという人が書いたDie spiralige Burgruine という本を、野上晶という人が『死の泉』として翻訳した本、という体裁をとっている。野上晶訳『死の泉』はマルガレーテの主観で書かれた第一部と、第三者的視点で書かれた第二部、そして翻訳者である野上晶の「あとがき」から成り、その後に、皆川博子さんのあとがきが書かれている。

問題なのは、野上晶の「あとがき」だ。「あとがき」では、ギュンターの『死の泉』を翻訳することになった経緯が書かれている。実際に著者であるギュンターに面会し、『死の泉』で書かれたことの一部は「事実である」ことがギュンターから伝えられる。しかし、野上晶の「あとがき」で書かれていることと、ギュンターの『死の泉』で書かれていることには、明らかに食い違っている点があることが分かる。

ナチスもSSも、レーベンスボルンもカストラートも、そしてフェルメールの絵も、すべて歴史的事実だ。『死の泉』はそういった歴史的事実が盛り込まれてはいるが、基本的にフィクションである。しかし、野上晶の「あとがき」を読み終えた瞬間、フィクションであるにもかかわらず、ギュンターの『死の泉』はどこまでが「本当」のことで、どこからが「本当ではない」ことなのかを、否応なく考え始めてしまう。「本当のこと」を小説の中で探し出そうとすることに意味はないはずなのに、ついつい考えてしまう。そして『死の泉』自体も、どこかに「本当」のストーリーがあって、それがギュンターによって捏造されているのではないかとも思ってしまう。なんとも不思議な読書体験だった。

 

死の泉

死の泉

 

 

初めてネイルサロンに行って思ったこと

最近、ネイルサロンに通い始めた。ネイルサロンに行こうと思ったきっかけは、爪の縦割れがひどくなったからだ。ストッキングを履いたり脱いだりするときや、シャンプーをするときに、ストッキングの繊維や髪が割れてる部分に引っかかり、痛い思いをした。

最初はこまめに爪を切ったりしていたが、それでも耐え切れないときは絆創膏を貼ったり、不織布テープを巻いたり、腹が立って瞬間接着剤を割れてる部分に少し垂らしてくっつけたりしていた。

でもそうするとさすがに見た目もよくないということに気づいて、久しぶりにトップコートを買って、マニキュアを塗るようになった。中学の時、夏休みの間だけマニキュアを塗ったりして遊んでいたことがあった。その時の感覚で10年ぶりくらいに自分でやってみたら、マニキュアを塗るのが下手くそで、やはりきれいにならなかった。

ジェルやカラーネイルはしなくていいから、単純なケアだけやってくれるネイルサロンがあるんじゃないか。探してみたら、近所に安くやってくれるサロンがあり、行ってみることにした。

私はずっと爪にコンプレックスを持っていた。長い間ピアノを習っていたから爪を伸ばすことができなかった。元々横長のいわゆる「男爪」だし、爪を噛む癖も大人なっても治らず、全然きれいな爪ではなかった。だから、ネイルとかあまり興味もなかった。というか、ネイルをしてきれいな爪の自分が全く想像もつかなかった。

だから、予約はしたものの、こんな爪だったらネイリストの方にドン引きされるんじゃないかと思い、当日までハンドクリームを塗り続けて、できるだけきれいな状態にして行った。

実際に行ってみると、爪の縦割れについていろいろと相談にのってくれた。爪の状態や、ケアの方法についても詳しく教えてくれた。

やすりで削って長さや形を整えて、甘皮を処理して、最後にベースコートを塗ってもらう。爪はとてもきれいになった。それからというもの、このきれいな状態を維持しようと思うようになり、爪を噛むことがなくなった。

ネイルサロンで爪の手入れを人にしてもらうと、思いの外気分がすっきりした。それは爪がきれいになったということだけでなく、人に自分の身体を手入れしてもらうという行為自体が、何か安心する出来事だったのだと思う。

この社会で女として生きることは、しんどいことの連続だ。若ければ「きれいでいる」ことが求められる。きれいならきれいでちやほやされ、「ブス」なら侮蔑される。どちらにしても、外見だけを他者からジャッジされることに変わりはない。同じ人間だと考えられてないのだと思う。家族ができれば、子どもや家族のために、自分のことはどんどん後回しになっていく。人として大切にされる経験は、大人になればなるほど、少なくなっていく。

ネイルサロンで爪を手入れしてもらうということは、「女はきれいであれ」という社会のメッセージを強化することかもしれない。でも、爪を整えてもらったり、ハンドマッサージをしてもらったりしたことは、たとえそれがお金が介在したものであったとしても、私にとっては自分の体を人に丁寧に扱ってもらうことで、自分のことを大切な存在だと久しぶりに思えた経験だった。それが私には心地いい。 

 

卵巣がんのあとを生きる

このブログを始めようと思った理由のひとつに、しんどさを考えることを、文字にすることで止めるということがった。私はしんどいことがあると、なぜしんどいのか、何がしんどいのかをついつい考えてしまう。そして考え続けることもまた、しんどくなってしまう。一度文字にして書いてしまえば、しんどさについて考え続けることを小休止できるのではないかと考えた。だから、何でも、その日その時に考えていたことを書いていこうと思っていた。

いざブログを書き始めて、私が真っ先に書いたことは、卵巣がんになった経験だった。私は卵巣がんになり、そこから生き残った者だけれども、自分が卵巣がんの患者であったこと、卵巣がんのサバイバーであるというアイデンティティはあまり持っていない。

確かに、卵巣がんの治療をしていた時、しんどいことはたくさんあった。卵巣がんの治療が終わって、自分が卵巣がんだったことを知らされた後も、しんどいことはあった。友人が出産すると、素直にお祝いの言葉をかけてあげられないし、産めない女だからという理由で、パートナーの親から交際を反対されてもいる。

でも他方で、私には楽しかったこともたくさんある。ウィッグをつけて登校していた時はちょっとしたおしゃれができたし、何より生理がないということはとても楽だ。友人と旅行に行くときにスケジュールを気にしなくてもいいし、生理痛で体調が悪くなることもない。卵巣があるかどうかは外から見ても分からないから、私が言わない限り、自分に卵巣がないことはパッシングできてしまう。

私にとって卵巣がんになった経験は、アイデンティティの核にはならなくても、ふとしたときに思い出し、あの時はどうだった、ああだったと振り返る出来事、と言った方が正確だと思う。そしてその経験は、確実に今の私の糧になっている。仕事がうまくいかないときやしんどいときは、あの時、入院中に自分で勉強を続けることができたのだから、今のしんどさも大丈夫、乗り越えられると思うようにしている。

女性のライフコースが多様化しているとはいえ、圧倒的多数の女性は結婚し、出産し、母親になっていく。そのルートに私は乗ることはできないけれども、そうじゃない生き方を選ぶことが私にはできる。あの時、死なずに生き残ったのは、私にはまだ何かしなければならないことがあったからだと思っている。そして、私が生き残ったことの意味は、今の私がどう生きるかにかかっているのだと思う。私は「かわいそうな人」ではない。せっかく与えられた生を、「産めないこと」を嘆くためだけに使うのはもったない。だから私は「産めないこと」を今も、これからも、悲観したりはしない。

 

卵巣がんになったときの話⑥

大学進学とともに私は地元を離れた。初めての土地で一人で暮らすことは、最初はとても心細かったけれども、それも次第に慣れていった。その頃にはもう、採血・CTと診察は半年に1回でよくなっていたので、大学の夏休みと冬休みで帰省したタイミングに合わせて、通院していた。

抗がん剤治療が終わってからもう何年もたっているのに、私には生理が来なかった。私の病名は卵巣嚢腫だと聞かされていたので、いつかは来ると思っていた。一度、母に「私将来子ども産めるかなー?」と聞いたことがある。母は「あなたは普通の女の子だから。普通の女の子と何も変わらないからね!」としか言わなかった。

このことは、私の中でなぜかずっとひっかかっていた。一人暮らしで初めて自分用のパソコンを持つようになった私は、ある日ふと思い立って、卵巣嚢腫について書かれたサイトを見ていた。通常ならば手術後しばらくして生理が来ると、どのサイトにも書かれていた。卵巣嚢腫になったという方が書かれているブログをたまたま見つけ、私は思い切ってメールをしてみた。その方は自分の場合はどうだったか、不安なことがあるのなら、医師にちゃんと伝えてみるといいよ、と丁寧な返事をくれた。

20歳になったとき、私は母といつものように地元の病院へ行った。病院の駐車場には、仕事場から直行した父がいた。両親揃って診察に行ったことはなかったので、何かあるのだろうと思った。

その日の診察で、私はすべてを知らされた。私の病気は卵巣嚢腫ではなく卵巣がんであったこと、それもステージはIIc期であったこと。発見が遅かったため、5年生存率も低く、そのことを私が知ったらショックを受けるだろうと考えた両親が、事実を伝えないよう、医師に交渉していたこと。そして、私の体にはもう卵巣も子宮もないということ。

あぁやっぱり、としか思わなかった。ふりかえってみれば、思いあたる節なんてたくさんあった。抗がん剤治療もしていたし、生理もこない。そしてあの母の大げさな対応。私はどこかで心に予防線を張っていた。もし卵巣がんだった時、ショックを受けないように、落ち込みすぎないように。

一人暮らしのアパートに帰って、少し泣いて、また病気のことについて考えはじめた。卵巣がんステージが進行していたことは正直驚いたが、それ以上に生き延びられたことの重みを感じた。私は生き残れたのだと思った。

両親が私に事実を伝えなかったことについては、なんとも思っていない。むしろ、私に対して嘘をついていたことは、心苦しかっただろうなと思っている。それに私はあの当時未成年だったから、私に決定権なんかなかったのだ。

でも最近、もしあの時事実を伝えられていたら、どうだっただろうかと思うこともある。小心者の私はパニックになったかもしれない。その意味では、「嘘」をつかれてひたすら勉強に専念していたのは、かえって良かったのかもしれない。一日でも早く学校に戻ること、授業に遅れないようにすることは、私にとって闘病生活を生き抜くための唯一の原動力だったのだから。

他方で、最初から病名を伝えられ、治療の選択肢を自分で選んでいたら、私はもっと自分の体に対して主体的になれたのではないかとも思う。私はどこかで、自分の体を自分の体として考えられていない。かつて卵巣や子宮があった場所は今どうなっているのか。空洞になっているのか、それとも肉で埋もれているのか、膣の奥はどうなっているのか、そういったことを気にかけることすらなかった。今もそのことを知りたいとは思えない。私は私の身体にとっての他者であり、傍観者のような気持ちでい続けている。

私は幸いなことに、術後5年をとうに過ぎた今でも元気に生きている。この卵巣がんはその後再発するのだが、その時の話はまた改めて綴っていきたい。

 

卵巣がんになったときの話⑤

手術から1回目の抗がん剤投与を経て退院して以降、毎月1週間入院して抗がん剤投与をし、2,3日は自宅療養をし、その後は登校するという生活を半年続けた。秋くらいになると、2代目のウィッグを着用するようになった。新しいウィッグは人毛でできており、ゆるいパーマがかかったセミロングのものだった。ナイロンと比べて人毛は柔らかく、手触りが全然違った。

入院したり登校したりを繰り返す生活は、とくに不便なことはなかった。ただ、白血球が減少する時期に、一度だけ期末テストが重なってしまったことがあった。私はマスクをつけて、保健室でテストを受けたりしていた。

年度末になると出席日数がぎりぎりであることが判明した。留年するかもしれないということは、とても不安だった。みんなと一緒に卒業したかった。部活の顧問の先生にその不安を伝えたら、そんなことは絶対させないと言ってくださった。心配事を話せる先生が身近にいてくださるということは、本当に安心できることだった。

私は入院のために授業を受けられない日が多かったけれど、その間、成績を落とすようなことはなかった。日本史のクラスで一番よい点数をとったこともあった。それらが幸いしてか、補習を受けることで、留年しなくてもよくなった。いろんな先生に配慮してもらい、学校からも理解を得られたことは本当に助けになった。そのことは今でも感謝している。

半年に渡る抗がん剤治療が終わると、あとは数ヶ月に1回、血液検査をしたりCTをとったりする程度で、もうほとんど普通の生活になった。新しい学年になると、髪の毛も徐々に生え始め、ウィッグを付けずに登校できるようになった。生えてきた髪の毛と残っていた髪の毛を美容院で調整してもらった。ベリーショートで私の好みの髪型ではなかったけれど、美容師さんに「かわいい」と言ってもらって嬉しかった。なにより、地毛で暮らせることはやっぱりとても快適だった。髪の毛は、その後1年もするとボブくらいの長さにまで伸びた。

採血とCT検査を受け、薬を処方してもらうために病院に定期的に通いながら、私は大学受験を終え、高校を無事に卒業することができた。手術と抗がん剤治療で入院していた時のクラスの思い出はほとんどないし、クラスに誰がいたかはあまり覚えていない。けれども、部活の友だちや担任・副担任の先生、部活の先生など、私の事情を理解して気にかけてくれた人たちが学校にいたことは、私にとっては大きな心の支えだった。