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綴る

日々のあれこれ、これまでと、これからと

卵巣がんになったときの話④

ショック症状を起こしてから3,4日後、今度は別の抗がん剤を使った治療が始まった。何が起こるかわからないので、最初から個室、担当医・看護師さん常駐、薬も通常のものより4倍くらい薄めて、時間をかけて投与するという厳重体制だった。そのおかげもあってか、今度の抗がん剤投与は何事もなく、無事に終了した。1週間たって、私はようやく退院した。

抗がん剤治療をするにあたって、副作用で髪が抜けるかもしれないこと、白血球が減少するので、投与後はマスクをつけるよう説明があった。脱毛は、薬の投与から3日後くらいに始まった。朝起きたときに、枕にいつもより抜け毛が多くついていた。あぁ、これが副作用の脱毛なんだなと思った。

髪の毛は一気に抜けるものかと思っていたが、実際は徐々に抜けていった。毎朝、枕には髪の毛がついており、お風呂あがりには排水口に抜け毛の塊ができていた。私の場合、髪の毛は全部は抜けず、細くて短い髪の毛だけは頭に留まり続けてくれたので、ちょっとみすぼらしい坊主頭みたいな感じになった。

学校は夏休みになっていたけれど、部活が大好きだった私は、両親が買ってくれたウィッグとマスクをつけて、毎日学校に行くようになった。ウィッグをつけることは学校から許可してもらった。

ウィッグはナイロン製で、毛先が大きくカールした、いかにもな感じだったので、行きつけの美容院に相談してみた。アイロンをかけてストレートにしてもらい、長さも切って自然に見えるように調整してくれた。少し茶色がかった、かわいいウィッグになった。

私は手術の前後で体重が10キロ落ちた(ただし半年で元に戻った)。校則が厳しい学校で、細くなった体に茶髪のセミロングというスタイル。ちょっとしたおしゃれができるのはとても楽しかった。部活の友人にはウィッグをつけることを打ち明けていたが、クラスの人には何も言わなかった。しばらく入院していたし、夏休みだしということで、あまり気づかれなかったのがよかった。

私の場合、抗がん剤の副作用で一番きつかったのは、便秘だった。薬を投与すると一週間は便秘。退院後、突然一週間分の便を夜中に腹痛と吐き気とともに排出する、ということが毎クールあった。また、顔のむくみや肌荒れもひどかった。でもこれはマスクでカバーできたし、どこまでが副作用だったのかは分からない。

先日、毎日新聞乳がん抗がん剤治療と脱毛に関する記事が掲載されていた。

乳がんで抗がん剤:98%に脱毛 5年後も10%がかつら - 毎日新聞

2013年まで、この件に関する調査がなされていなかったことの方が、意外に感じた。

がんに限らず、「闘病生活」は施術を受け、薬を飲み、体を休めることだけではない。病院の外にはそれぞれの生活がある。病気によっては、偏見を持つ人がいたり、騒がれたくないから、病気のことを隠して、何でもない風を装って生活しなければならない場合も多い。しんどい人が、そのしんどさを隠さなければならないという状況はおかしい。でも現状では「普段通りに生活すること」も、病気と闘うことの一部だと思う。

調査による実態の把握と、それを受けて、当事者である患者さんと、その家族への十分なサポート体制が作られていってほしい。

 

誰にでもいい顔する人は

私は八方美人な人が嫌いだ。八方美人な人は、誰の話も平等に聞き、それなりの理解を示してはくれる。しかし、味方になってくれることはほとんどない。話を聞いてくれて、共感を示す言葉をかけてくれるから、その人のことを信じていろいろ話をしたけれど、他の人がいる別の場面では以前言ってたことと全然違うことを言うとか、全くフォローしてくれなかったというようなことを、最近いくつか経験した。

八方美人な人が嫌いなのは、「裏切られた」とは思わないけれど、自分が相手に期待していたことがそうはならなかったことへの失望だけではなく、私自身がそういう風にうまく立ち振る舞うことができないから、単純に羨ましく思っているのだと思う。

私は普段、感情の波がほとんどない。基本的に低空飛行だ。その代わりに、本当に心の底から楽しいと思ったときは物凄くテンションが上がるし、本当に怒りを覚えたときは自分でも怒りの感情を抑えきれなくなって、攻撃的な口調になったり、怒っていることが露骨に態度として出てしまう。私は怒る機会の方が少ないが、以前、どうしても腹が立つことがあり、3日間くらいそのことでずっとイライラしていた。私は一度怒り始めると結構長く怒る人だったんだなと、その時はじめて思った。

八方美人な人を観察する中で気づいたのは、そういう人たちは普段から感情を気軽に表現しているということだ。普段は明るくて話してて楽しい人だし、割りとちょっとしたことでも怒って、それを口に出している。

こういう風に、普段から自分の感情が表現できているから、意見の異なる人と出会ったときに、自分の感情を少し抑えて、相手に合わせたり譲歩したりしながら、話し合うことができるのだと思う。

でも、私は感情を抑えていることがデフォルトになっているから、考え方が違う人と話していて嫌だなと思ったり、そういった人から否定的なことを言われると、逆に我慢することができない。もういいやと投げやりな態度を取ってしまったり、つきあい続けることがしんどいから距離を置くようになり、結局孤立していく。日常的に押さえ込んでいるものをさらに押さえ込むということは、私にとってはこれ以上耐え切れないことだ。

私が勝手に期待して、勝手に裏切られたと思って、勝手に落ち込んでるだけのこと。だから人に何かを期待したり、自分のことを代弁してもらったりフォローしてもらうという甘い考えを止めたらいい。これまで何度もそう考えてきたけれども、どこかでやっぱり人を信じたい、この人なら力になってくれるんじゃないかと思ってしまう。八方美人な人たちは、どうやってそのバランスを取っているんだろうか。

 

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

ずっと見たいと思っていた『マッドマックス 怒りのデス・ロード』をついに見てきた。台風で風と雨が強い中、この映画を見るには絶好のタイミングだった。

一面砂漠の荒廃した世界を放浪するマックスは、イモータン・ジョーが支配する砦「シタデル」に虜囚として捕らえられてしまう。ある日、「シタデル」の大隊長フュリオサは、監禁されていた5人の妻たちとともに、「シタデル」から逃走する。それを知ったジョーは、「ウォーボーイズ」と呼ばれる部下たちを連れて、フュリオサを追う。ウォーボーイズのひとり、ニュークスの「輸血袋」にされていたマックスもその追尾に駆り出され、フュリオサたちと合流し「緑の地」をめざす。

この世界「ウェイストランド」では、石油と水、そして人間が重要な「資源」として描かれている。労働力・戦力として働かされる人びとがいるだけでなく、「輸血袋」にされたマックスの他にも、ジョーの子どもを産むためだけに監禁されていた女性たち、貴重な栄養源として母乳を搾り取られ続ける女性たちなど、まさに人間の身体そのものも「資源」にされている。

私は普段、アクション映画はあまり見ない。腰が痛くなるので映画館に行く機会も最近ではなくなっており、最後まで腰大丈夫かなと不安ではあったが、そんな心配は杞憂に終わった。始めから最後まで、あっという間だった。

最初の方はどういうスタンスで見たらいいのか分からず、これどうやって撮影したんだろう、ということばかり考えていたが、 広大な砂漠をものすごくデカイ車やバイクでひたすら走り続ける、そのシーンを見てるだけで気持ちがすかっとした。

そして何より、登場する女性の描き方がとても安心できるものだった。フュリオサを演じるシャーリーズ・セロンはかっこいいし、ジョーの「妻」たちも逃避行の中で銃の手入れや監視役など、次第に主体的になっていく。「鉄馬の女たち」は高齢だけどオートバイをガンガン走らせ、銃もバンバン撃つ。個人的に、おばあちゃんがかっこいい映画は名作だと思っている。

私が一番うるっときたシーンは、すべてが終わり砦に戻ってきたとき、母乳を絞り取られていた女性たちが、ジョーが独占していた水門をみなで解放したシーンだった。なんでここで感動したのかよくわからないが、最初の方にチラッとしか出てこず、身体を「資源」として使われていた女性も、その存在を忘れらてなかったんだということ、車やバイクに乗って砂漠を走り回ることはできなかったけれど、彼女たちも「解放」に関わる能動的な主体として描かれていたからだと思う。

すっきりするし、元気も出る。こういう映画、いいなと思った。

 


 

卵巣がんになったときの話③

手術後一向に退院できなかったのは、摘出した卵巣の細胞を調べていたからだったらしい。結果から言うと私は卵巣がんだったが、このときはまだ卵巣膿腫だと伝えられていた。担当医から伝えられたのは、変な形の細胞が見つかったから、念のために抗がん剤治療をする、ということだった。髪が抜けるのは嫌だったが、当時の私は仕方がないことだと思って割とすんなり治療の決定を受け入れてたように思う。

抗がん剤治療の最初のクールが始まった。相部屋のベッドで点滴をした。最初ということで、母と担当の医師、看護師さんがしばらくの間付き添っていた。人によっては強い副作用が出るので念のために様子見をするのだと、母と医師が話していたその時、視界の中に無数の赤黒い斑点のようなものがパチパチと見え始め、次の瞬間、一気に呼吸ができなくなった。

意識も朦朧としていたので詳しくは覚えていないが、抗がん剤の投与を止め、代わりに別の点滴がなされていた。私はベッドごと相部屋から個室へと移動させられた。移動してる間、点滴が物凄い勢いで落ちていたことと、なぜか靴下を足を使って脱いでいたこと、そして驚いた母が廊下で涙ぐんでいたことを覚えている。

個室に移り、処置をしてもらって、容態は落ち着いた。夜、顔を洗って鏡を見たら、呼吸できないときに力んだせいか、目の周りが内出血して、小さな赤紫の斑点がそばかすのようにたくさん出来ていて気持ち悪かった。

この出来事は、私と、そして母にとって今でもトラウマとなっている。私は、ショック症状を引き起こしてから、薬を飲むのが怖くなった。通い慣れた信頼している病院で処方してもらったものや、いつも飲んでる市販の薬以外のものは、怖くて飲めない。副作用をネットで調べて、アナフィラキシーになる可能性が僅かでもあることが書かれていると、もう飲めない。今ここで薬を飲み、昔のようにショック症状が出たら、私は誰にも知られずに、もがき苦しみながら死んでしまうのではないかと思ってしまう。高熱が出て救急にかかり、頓服薬を出されたが怖くて飲めず、結局市販の風邪薬で3日間過ごしたこともあった。

他方で、毎年、私がショック症状を起こした時期が近づくと、母は突然この時のことを思い出してしまうらしい。呼吸ができなかった私の顔は赤黒くなっていたそうで、そのことがいつまでたっても頭から離れないのだそうだ。何が起こったのか半分くらい分からなかった私に比べて、一連の顛末を客観的にすべて見ていた分、母の方がダメージは大きかったのだと思う。がん治療には本人だけでなく、家族への精神的なケア、それも、術後何年経っても蘇ってきてしまう辛い記憶に対するケアも必要なのだ。しかし、そうしたケアは地方に住んでいるとなかなか受けられない。

翌日、病院内の皮膚科にかかり、目の周りの内出血を治す薬を処方してもらった。歩く分には全然問題なかったが、念のためということで、看護師さんに車椅子で連れてってもらった。人に押してもらって車椅子で移動することは、楽でとても楽しかった。

 

卵巣がんになったときの話②

吐き気がひどかったのは手術した日の夜だけだったが、術後、私は微熱がなかなか下がらなかった。担当医からは、このまま微熱が引かないようであれば内診をする、と言われた。今でもそうだが、内診は不快だ。母に伝えると、いつもおっとりしている母は厳しい顔つきでナースセンターへ行った。当時、私はまだセックスをしたことがなかったので、母は私の「貞操を守る」つもりだったのだろう。でも私はそんなことはどうでもよく、医療行為とはいえ、人に性器を見られることが単に嫌なだけだった。

微熱は1週間ほど続いたが、次第になくなっていった。食事もおかゆから白米へと戻っていった。縫合したお腹は痛かったが、一人で髪や体を洗うこともできるようになっていった。病室も個室から相部屋へと戻った。しかし、一向に退院できる気配はなかった。

私は反抗期らしい反抗期があったわけではなく、普段から感情の起伏もあまりない。怒る、悲しい、楽しい、嬉しい。そういった感情はもちろんある。でも、その感情はあまり外から見ると分からないらしい。私自身、いろんな感情をどうやって表現したらいいのか、どうやって伝えたらいいのか、未だによく分からない。

しかし、手術が終わったのに退院できないという状況は、相当なストレスだった。ある日、母がいつものように面会に来た時に、「家に帰りたい」と伝えた。まだ無理なんじゃないかなと、母にやんわり却下された時、私は思わずキレてしまった。私は家に帰りたい、なぜ帰れないのかと母を問い詰め、面会に来てくれた母に対して「帰れ」と怒鳴ってしまった。母は帰って行った。おしゃべりしていた他の患者さんたちも黙りこみ、病室は気まずい空気になってしまった。

その日の夕方、外来を終えた担当医の先生が部屋に来た。母との一件を耳にしたのだろう。入院が長引いて辛いだろうけど、当たるならお母さんにではなく、僕に当りなさい、そう言ってくれた。この言葉は今でもよく覚えている。患者としてではなく、未成年ではあるがひとりの人として、先生は私に向き合ってくれたのだと思った。

結局、私の我慢が爆発したため、その週末には外泊許可が出て、家に帰ることができたのだった。私の入院生活は1か月になっていた。